『啓蒙思想2.0〔新版〕: 政治・経済・生活を正気に戻すために (ハヤカワ文庫NF)』
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『反逆の神話』の哲学者が、〈啓蒙〉を再起動する
いまや世界は右翼/左翼ではなく、正気/狂気に分断されている。政治も広告も陰謀論も人々の直感的思考につけこみ、真実よりも「真実っぽさ」を声高に語る。SNSは言葉による平手打ちのけんかを助長し、合理的な議論を破壊する……「ファストライフ」に感染した現代の社会環境に、理性はいかにして実装しうるか? 哲学者が保守主義や認知科学を動員して打ち立てる、新しい啓蒙思想。書き下ろし序文を収録。
解説/宇野重規(東京大学社会科学研究所教授)
meganii.icon感想(意訳あり)
啓蒙思想についての概念を掴もうと読み始めたが、途中の話が長すぎ、かつ、自分の政治、民主主義に対する理解が足りていないので頭から最後まで読み切ることを諦めてしまった。「もっとポイントを絞って書いて欲しい」と感じたが、そう感じること自体がファストライフに染まっている証。「スロー・ポリティクス」の要領で、あえて読むペースを落とし、熟慮すべきなのかとも思った。再読したときの自分に期待しよう。 何事にも早さを求められる現代社会において、速度を落として物事を考えるというのは大切なのかもしれない。
そもそも「啓蒙」とは、物事に暗いことを啓(ひら)くことで、無知を有知にするという意味。本書では、ドイツの哲学者イマニュエル・カントの「啓蒙とは何か」を引用し、 『「啓蒙」とは勇気を持って自分の理性を使用すること。人間には理性があるのだから、偏見や思い込みを排して、公共的に理性を使用すればよい』という立場を取っている。 「啓蒙」とは、「蒙(無知蒙昧の蒙。物事に暗いこと)」を「啓(ひら)く」ことで、無知を有知にする意味。18世紀フランスに起こった啓蒙思想での「無知」とは、封建社会の中で教会的な世界観の中に閉じこめられていた人々のことを言い、彼らに対して「人間」や「社会」、あるいは「世界」や「自然」の真実を教え、無知から解放することが「啓蒙」であった。その啓蒙思想は当時のフランスのブルボン朝ルイ15世の絶対王政と、そのもとでのアンシャンレジーム社会に対する攻撃という毒を含むこととなった。 from 啓蒙思想 啓蒙思想1.0は、理性を個人のものと捉えたために立ち行かなくなった。なぜなら、この捉え方をすると、個人に対してもっと合理的に考えろ、自制しろという精神論となる策しか生まれてこないからだ。
そこで啓蒙思想2.0では、理性は多様な個人にまたがる非集権的で分散的なものであるという認識のもと、「理性は社会事業である」と再定義した。理性は、社会的・文化的環境に大きく依存する。個人に頼るのではなく、環境そのものを合理的な思考と計画に役立つものに整備していくことで間接的に人に働きかける。(すなわち「外部足場」) 37のときだけ処理を追加するというプログラム関数の例えが、付け焼き刃の対応、とって付けただけの対策であり、根本は何も変わっていないがうまくいっているように見えているだけというクルージの様を表していてとてもしっくりきた。 (もしかしたら既にあるのかもしれないが)社会制度やプロセス設計にも、グッドデザイン賞のようなものがあればいいのにと本書を読んで思った。